この『風景映画』という16ミリ中編映画は僕が23~25歳の3年間を
費やして製作しました。現在のDVやHD撮影
と違って
、16ミリFILM撮影はお金
もかかり、制作費の300万も完全アルバイト自己資金で調達しました。
昼間は発ガン性物質のアスベスト除去工事に従事し、夜中は新宿駅構内に
おいて終電後のAM1:30~AM3:00まで
ホーム階段清掃を週4で働いた。
真夜中3時に終わると、新宿駅からアパートのあった阿佐ヶ谷までの約7キロ
の
道程を徒歩で1時間かけて帰り、2時間ほど仮眠をとってはまた昼間の仕事
へと向かった。週末の夜には歌舞伎町界隈で
違法経営ピンサロの呼び込みの
バイトも兼用し、とにかく昼・夜構わず働いた。
クタクタになり乍ら泥の様に
なって稼いだ
制作資金だった。
その僕自身の絶望的な日常の反動からか『風景映画』の主人公はひたすら
労働を否定し、借金を膨らませてゆく。
実は小心者の僕は、そんな主人公に
憧れを抱いていたのです。借金までして映画を撮るなんて自分の才能に自信
も
煌きもなかったし、常に石橋を叩いて渡る様な芸術家にとっては致命的な
自分の性格に不甲斐なさを感じ、
それも反動から次作『イヌ』において35ミ
リ長編映画という無謀で莫大な借金地獄へと突き進ませたのだと思います。
話を戻します。この『風景映画』の元々は藤原新也著「東京漂流」に触発
されたことがきっかけです。
タイトルもその儘『東京漂流』とパクリ、22歳
の僕はたった一人で16ミリアリフレックスカメラを担いで1990年の
東京を
活写しようと試みました。知り合いという知り合いに数万円のカンパを強請り
周りから本気で嫌がられ、
知人がキレイさっぱりと居なくなり、結局そんな
制作資金調達で100円も集められないまま1年間を費やしてしまった。
ならば
正攻法でと昼夜を問わず働き出したのが、その経緯なのです。
その時点で、映画の内容も一匹の野良犬を主人公にした東京の風景映画と
いうスタイルでタイトルも
『舗道に犬が居ました』と改題され、準備に追わ
た。抽象的なシナリオ故、誰も協力してくれる人が現れることも
なく、その
主人公の野良犬が終盤、保健所に捕獲され実際に死を迎えるシーンも、自分
の説得力の無さから
東京都動物愛護センターの所長さんの理解も許可も一切
得られなかった。22歳の関西訛りが抜けない胡散臭い少年が
いくら必死に訴
え力説しても、例えばその他の希望ロケだった東京食肉処理場の屠畜シーン
や身寄りのない老婦人
だけを集めた千葉・館山の施設やソープランドで働く風俗嬢など見事なまでに撮影許可要請の答えは全員「NO」
だった。
四面楚歌状態で完全にウツで被害妄想でクタクタに疲れてしまった。
そんな雁字搦めの鬱積した日々の
中で、
自分の日常・行動を映画にしようと
思い立ち、急遽『TOKYO FLAME』という再再タイトルの劇映画に転換した。
実は逃げたのだ。つかみどころのない風景映画というドキュメンタリーなの
か日記映画なのか実験映画なのか
得体の知れない映画構想から安易な劇映画
スタイルにただ単に逃げただけだったのだ。
それでも独り合点で、
その劇映画スタイルに「実験精神」と本来やりたか
った「風景映画」を融合させればいいのだと信じて疑わなかった。
その後もタイトルが二転三転と変わり、最終的に『風景映画』と決まるな
ど、僕自身の足元が常に揺れていたという
実証なのだろう。そういった過程
において当初、台詞もなく眼差しだけで撮ろうとした映画はいつしか、誰も
理解を
示してくれない「風景映画」を撮ろうと右往左往し何一つ報われない
アマチュア映画作家の話に変色し、
テーマも映画製作に対する純粋性と現実のギャップを描くという所に落ち着いた訳である。 |